高校時代は何不自由なく、青春を謳歌していました。 ただし、硬派としてバンカラ調、 時代は違っても、やはり軟派な奴は居ましたが、相手にしませんでした。卒業してみたら、 その軟派な奴が「警察官」になっていたりしていて、世も末だね〜と。 その頃、クラブは「ラクビー」。インターハイでは、常に北陸代表として全国大会に出場。 毎年、夏の合宿は秋田商業へ出向いておりました。 私が卒業した翌年、甲子園球場では「蜃気楼旋風」を巻き起こし、準準決勝で進みました が、徳島商業の坂東にやられました。 就職は、地元の三菱系列の「日本カーバイト工業」研究所分析室勤務。その時代、卒業 して男はカーバイト、女はYKKファスナーへの就職は憧れでした。その頃のYKKは まだ小さな町工場でして、従業員も200人も居たでしょうかね〜。カーバイトは1800 人の大工場で全盛期でした。繁華街も賑わい、飲み屋も数百軒もあり、深夜まで騒いでい ました。 研究所の所長はK大OBで、優秀なT大、H大卒の新人等には目もくれず、後輩のK大卒 ばかり可愛がっていましたね。そこではじめて「学閥」と言うことを知り、正直言って愕然 としました。もうそこで、自分の将来が見えたような気がしました。学校で学んだ「機会 均等」「努力」など何処かへ噴き飛び、一遍にいやになり、辞職することに決意したので あります。まだ、若かったのですね〜 正義感が強く、我慢ならなかったのです。 つづく |